Desire*desirE #9 歌って。

 夜。
 手帳のカレンダーにバツをつけた私は、そのカレンダーを撫でた。
 いつのころからかつけているそれは、私だけの秘密。アルトにとってここの合鍵がそうであるように、私にとって、この手帳はかけがえのない宝物だ。
 丸がついている日は、私の恋人が訪れた日。大切な大切な一日だ。
 だが、前についた丸はそのページからとうに姿を消している。
 ――アルトが私を訪れなくなって、一か月が経とうとしていた。
 何回か送ったアルトへのメールは開封もされなかったらしい。全部が期限切れで返送されてきた。
 今日は来るかもしれない。今日は。今日こそは。そんなことを思っている間に、こんなに時が過ぎてしまった。我ながら、臆病で受け身な自分に嫌気がさす。
 私はペンを取って、ミスティルにメールをしたため、マナを載せて飛ばす。
(……明日)
 アルトに会いに行く。


「だからっ……アルトには会えないって……!」
 ミスティルは困ったように私を見上げる。
「アルトは……キミと会いたくないって言ってる」
 先ほどから10回は聞いたその言葉に、私はため息をついた。
「私が嫌われただけならそれはそれでいい。ただ、理由を聞かせてほしいと言っているんだ」
 ミスティルは私から視線を逸らし、口ごもる。なにか言い方を考えているような感じが、私はまだあの子に嫌われていないのではないかという勝手な自信に繋がった。
 ミスティルはしばらくそのまま視線を逸らせていたが、わかった、と小さく呟いて私を家に招き入れた。おそらく、アルトとwisで会話していたのだろう。マナの力で指定した相手と内緒話ができるwisは使い勝手はいいが、こう使われるとあまり気分の良いものではない。
 私を座らせた前に冷たいお茶を置き、ミスティルは申し訳なさそうにして話し始めた。
「……アルト、ずっと体調が悪くてね。熱が下がらないんだ。うつるものではないらしいのだけど」
 ミスティルは続ける。
「弱った自分を見せたくないって……だから、ルアムが来ても追い返してくれって言われてて……」
「私は」
 言葉を選び、自分の今の気持ちに一番近い表現を探しつつ、ミスティルに訴える。
「アルトがどんな状態であろうと、好きだ」
 ミスティルは頷きながら指輪をいじる。
「アルトには、私のいいところだけを見せるつもりはない。それと同様に、アルトのいい部分だけを見るつもりもない」
 ああ、なんだ。
 簡単だった。
「私はアルトの全てが好きだ。だから、全部受け入れる。……いや」
 私はこんなに、
「受け入れさせて、ほしい」
 あの子のことが好きだったんだ。
「……それ、あの子に言ってあげて」
 ミスティルはそう言って、アルトの部屋の方へ私をいざなってくれた。
 恋人の部屋に通じるドアの前に立つ。
 ケンケン、と苦しそうな咳が中から聞こえた。
「アルト。入るぞ」
「……うん」
 奥からの返事を聞き、ドアノブを回す。
 そっと扉を押して中に入ると、彼は起き上がろうとしていた。
「寝たままでいい」
 後ろ手でドアを閉め、私はアルトを制した。
「ん」
 机の備え付けの椅子を借り、ベッドのそばに座る。少年マジシャンはいつものローブではなく部屋着を着て(アイラブゲフェンとか書いてある大人用のTシャツだ。どこで買ったんだこれ……)、うつろな目で私を見た。
「……元気ないとこ、見せたくなかったな」
「私は、元気があるからお前のことが好きなわけじゃない」
 ああ、こんなことしか言えない。
 いざ本人を目の前にしたら、こんなにも緊張するものなのか。
「でもさ。いいところだけ、見せたいじゃん。好きな人にだけは、さ」
「逆だ。私を好きなら、悪いところも、汚いところも、全て見せてくれ」
 私は熱で赤くなっている、彼の頬を撫でた。じんわりと汗ばんでいるそこに、子ども特有の細くて色素の薄い髪が貼り付いている。
「私はお前の全てを受け入れたい。全て受け入れた上で、お前のことを好きだと言いたい」
「……!」
 小さく声を上げ、目を見開いた彼は、しかし気まずそうに私から視線を外す。
「メール……開かなかった」
「そうだな」
「あたまにこなかったの?」
「心配した」
 即答する私に、アルトは視線を戻してすがるような目で見つめてきた。
 しかし、
「ばか、だなあ」
 アルトが呟く。
「怒りなよ……。オレ、キミのことムシしたんだよ」
「ああ、そうだな」
「こんな自分勝手するヤツなんだよ」
「さっき言ったろう。悪いところも汚いところも見せてくれと」
 彼の手を握る。汗ばんでいる小さな手は、力なくそのままの形で私の手を受け入れた。
「全て見せてくれ。全部、受け入れさせてくれ」
 彼の瞳を覗く。綺麗な琥珀色の瞳は、少し潤んでいた。
「愛しているよ。アルト」
 アルトは少しだけ戸惑ってから、私の手を握り返してくれた。
 私の手に落ちた水滴も、彼の体温同様熱かった。


「や、やっぱりいい」
「いいから。私がしたいんだ。させてくれないか」
 硬く絞った濡れタオルを見せて、私は目を細めた。
 この少年は、身体を拭いてほしい、と自分から頼んできたのにこれだ。
 まぁ、私だったら恥ずかしすぎて頼みもしない。怖気づく気持ちは判る。
 しかし、せっかくタオルを用意したんだ。私はやる気満々だし、汗を拭うくらいさせてほしい。
 ……ちょっとどころではない下心があるのは認めざるを得ないが。
「ほら、腕を挙げて」
 私が服を脱がそうとすると、彼は目が回るんじゃないかと思うくらいぶんぶんと頭を振った。
「じ、自分でできるっ。できるからっ。あっち……あっち向いててっ」
 言われたとおり、そっぽを向くと、布の擦れた音がした。
 あのあまり趣味がよくない(と言うのは失礼か……)Tシャツを脱いだのだろう。恋人はいつもよりかすれた声でいいよ、と言った。
 その声を聴いて、私はアルトのほうを向く。彼は私に背を向けていた。
「……て……手の届く範囲は、自分でやるから……。背中、だけ」
「判った」
 タオルで彼の背中を拭く。小さな背中だ。姿が少年なのだから、それは当然なのだが、やはりなにかいけないことをしているような気分になる。
 と、彼の首元に、赤いあざがあるのに気が付いた。花のような形をしたそれを撫でて、彼に話しかける。
「こんなところにあざがあるんだな。気づかなかったよ」
「ん。気づかれちゃった」
 そう言って少し笑い、彼は振り向いた。
「なんかさ、みっともないよね」
 困った顔の恋人に、私はいいやと言って、その場所をもう一度撫でる。
「花が咲いているみたいだと思った。とてもキレイだ」
 反射的、という言葉が似合うだろう。私は本当になにも考えず、そのあざに口づけた。
「ぴゃあ!」
 子猫のような、かわいい悲鳴を上げて、アルトが身体を跳ねさせる。
 それこそ反射的に、彼から離れた私を見つめる目は涙目だった。
「そこ、痛かったりするのか。すまなかった」
 謝る私に、彼は首を振る。
「い、痛くはないけど、ビンカン、なの。そんなことされたら……その……っ」
 ただでさえ熱で赤い頬を染め、彼は言葉を詰まらせた。
 熱があるゆえの荒い呼吸と、紅潮した頬。潤んだ瞳。それはひどく艶があって色っぽかった。
 こういうところは、その幼い見た目と相反するな。
 いや、私が変態なだけか。あまり意識するのはよしておこう。
 私はアルトに濡れタオルを渡して、手が届く範囲を拭くように促した。
「あっち……向いててくれる……?」
 これ以上彼に気を取られたらどうにかなりそうだし、ここは従うとしよう。くるり、と反対を向いて、手ぶりで「見ていないよ」と示した。
 しばらくの沈黙の後、ありがと、と声が聞こえた。彼のほうを向いてもいいということなのだろう。
 向き直して、アルトの持っていたタオルを受け取り、そばに置いておいたタライの中に置いた。
 張っていた気が緩んだのだろう。うとうとし始める幼いマジシャンの手をさすりながら、私は問う。
「眠いのか」
「……眠い」
 眠るといい。
 そう言って、私は彼の目の部分を手で覆った。
 すると、アルトはくすぐったそうに笑って、ねぇ、と語りかけた。
「歌って」
「流行りの歌など知らないぞ」
 知っている歌でいい。
 そうねだる恋人に、私は少し戸惑ってから、歌い始めた。
「……聴いたこと、ない歌だ」
 彼が呟く。
「……不思議な、歌……」
 とろりとした声で言うと、彼は眠りに落ちたらしい。規則正しい呼吸が聞こえてきた。
 私は彼の顔から手を離すと、額にそっと口づけた。
「……聞いたこともないのは当然だよ」
 私は彼の耳元で囁く。
「死んだ友人のオリジナルなのだから」
 そして、この歌は。
 声変わりをしてから、初めて歌う。
 ……そう。
 『彼』にすら聴かせたことはなかったし、きっとこの先、この子相手以外に歌うこともない。


 私が知っている、唯一の歌。
 明日への希望を歌うそれは……
 孤児である私が、ずっと支えにしていた歌だった。